2017年11月29日

ブログ企画【繋】第63回テーマ「節目 」〜その2〜

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さて、今月1日に 書きかけのままでブログをUPしてから かなり間が開いてしまった。
月が変わってしまう前に 残りを書いておかねば…。
前回は、大学に入った後 現在のお店でバイトを始めるところまでを書き留めたので その続きから…。

7《学校を卒業したその秋に結婚…》

さて、めでたくライブハウスでバイトを始めることとなったのだが…
まあ 何と言うか、いろいろと勉強、経験になった。
例えば、それまでは何となく ある程度 演奏がレベルアップしてゆくにつれ徐々にお客も増えてゆき、階段を登って行くようにプロへの道が開けて来るものなのかな…と思っていた。
ところが いざ現場に入ってみれば、演奏はとても上手いのに お客さんが全く来ない人の何と多いことか。
反対に 何でこのレベルでこんなにお客がいっぱい来るんだろう…と不思議に思うような日も多々あった。
今ならば、お客さんを呼べるということは やはり何がしかの魅力があるわけで、それは決して技術的な側面だけで測れるものではないとわかるのだが、当時はなかなか理解出来なかったものだ。
また、音楽をやってゆくうえでのシビアな金銭事情なども目の当たりにすることとなる。
自分はもともと プロのミュージシャンになりたいなどとは全く考えてもなかったのだが、実際に生でリアルな現実を目にすると、プロになる人というのは やはり何か自分とは違う特別な人なのだ…という思いを強くした。
何だろう…? 技術だけでは計れない、人を惹きつける人間としての魅力…そういったものを持った人でなければ どんなに演奏が上手くてもプロにはなれないんだな…と、
そんな事を何となく感じたりしていた。

さて、少し「節目」というテーマから 話が横道にそれてしまったかもしれない…。
とにかく当時の私は 父を亡くし重石が取れてしまった反動で、当初 大学に入った頃の目標であった 教職を取って 美術の先生になる…という話もすっかり忘れてしまい、授業にもろくに出ずに フォークソング倶楽部とバイトにばかり精を出すといった毎日であった。
そんな日々を過ごした後に 私は無事に大学を卒業、
そして印刷関連の製版会社に就職。その年の秋に学生時代から付き合っていた二つ年上の彼女と結婚する。
まだ就職したばかりの先も見えない状態で結婚など早すぎるのでは…との周囲の心配は当然あったが、当時の私は“愛があれば大丈夫!”と信じていた。
残念ながら 10年の時を経た後、二人は別れる事となるのだが…
私は この若き日の決断を、今でも決して後悔はしていない。

8《いろいろあって10年後に離婚、ヤケクソおこして社長にたてついた結果 リストラを喰らう…》

先にも触れたが、結婚10年目にして私は離婚を経験することとなる。
理由は様々なものがあるのだが、ここでそれを語ったところで 読んでいる人には面白くも何とも無いだろうから 省略させてもらう。
ただ 当時働いていた会社の過酷な労働環境によるすれ違いが大きな一因であったのは確かであった。
何しろ 朝7時に家を出て帰宅は午前1時、月の残業は150時間を超え、週に2回は泊まり、休日出勤も度々というメチャクチャな状態であった。
私は当時 現場のリーダーをやっていたので、かなり酷い状態でありながらも働くしかなかった。5年前に家を買ったこともあり、家庭の為、ローンの為と、いろいろ会社に不満があっても我慢して働いていた。
しかし、結果として家庭は崩壊。こうなったのも そもそも劣悪な労働環境を改善しない会社のせいだ…と開き直った私は、次第に会社…特に社長に対して何かと反抗的になって行った。
そんな中 ある日 どうにも我慢できないことがあり 社長を捕まえて
「あんたがそんなだから、誰も社員が付いて来ないんだよ!」
…と、皆の前で啖呵を切ってしまった。
それから数日後、社長室に呼び出され クビを宣告される。
もともと会社に嫌気がさしていた事もあり、その日のうちに荷物をまとめて辞めてしまった。
35歳を目前に控えた春の事であった。


9《行き場がなくなり 現在のお店に舞い戻る…》

その頃 私がやっていた仕事は、印刷関連の製版という工程の中の‘レタッチ’という職種であった。
説明が難しいのだが、かなり細かい神経を必要とする専門職で
私が大学を出て就職した頃は これを身につけておけば一生ものと言われ、腕のいい職人は結構よい給料をもらえる仕事であった。
しかし、私がリストラを喰らった1990年代末頃は この製版の世界もデジタル化が進み、それまでのルーペを覗きながら0.1ミリ単位の手作業を要求されるというアナログな仕事から ネットを使ったデータのやり取りとパソコン等を使っての作業中心へと大きく変化してゆく頃だった。
まだ手作業のアナログなレタッチでの求人もそれなりにあったのだが、
将来的な視点で考えれば 先の無い職種であった。
仮にレタッチで再就職したとしても、5年後には確実にリストラされてしまうだろう…
あと何よりも、連日 納期に追われて まともに家にも帰れないような仕事は もうやりたくなかった。
10年間、家庭の為、会社の為と 自分のやりたいことを犠牲にして働いて来た結果が 家庭崩壊とリストラであった。
これからの人生は もう自分の為だけに生きよう…そう思った。
私はいくつかの会社の面接を受けてみた。
主に接客関連の職種であったが、アルバイト程度の経験しかない畑違いの35歳の男を雇ってくれる会社など 何処にもなかった。
こうなったら いくつかバイトを掛け持ちして生きるしか無い。
一人分の生活費くらいはギリギリ稼げるだろう。
それでも 一つくらいは楽しい仕事がいいな。
そういえば、昔 ライブハウスでバイトしてた時は楽しかったな。
週に一日でもいいから また働けないかな…
そんなわけで 久しぶりに懐かしい江古田のライブハウスを訪ねた。
「すいません、今 バイト募集してませんか〜?」

実は当時 この江古田のライブハウスは 結構ヤバイ状況にあった。
中心になっていたバイトリーダーが辞めてしまい、経験の浅い自覚の無いバイトスタッフばかりになってしまい、音響面 接客面 共にかなり酷い状態が続いている状況であった。
「いいところに来てくれたね〜、実は今 現場を任せられる人を探していたところなんだよ。」
社長にも歓迎され、私は10年ぶりに めでたくライブハウスの仕事に復帰することとなった。

10《その後、江古田駅前で夜中に唄っていたところを現在の奥さんに拾われる…》

そして ライブハウスの仕事に復帰してからというもの、
それはもう一言では言えないくらいに実にいろいろな事があった。
今回のテーマとずれるので省略させてもらうが、
学生時代にバイトしていた頃とは比較にならないレベルで、様々な事を経験し考えさせられた。
バイトに復帰する頃とほぼ同じくして 自身のライブ活動も再開したのだが、何しろ10年間 全く音楽とは無縁な生活をしていた為、久しぶりの復活ライブは相当に悲惨なものであった。
技術的なものも随分と衰えていたのだが、何よりも久しぶりに人前で歌を唄うという状況に メチャクチャに緊張してしまった。
足も手も震え、声も思うように出ない…
10年ぶりのステージは、まるで初心者のように悲惨でボロボロな演奏になってしまった。
久しぶりのステージに向けて、結構自分なりに練習もしていたのだ。
それなのに この有様…、駄目だ!もっと人前で歌うことに慣れなくては…。
私はとりあえず、ステージ度胸をつけるために路上ライブをやってみることにした。
最初はまず、新宿歌舞伎町に行ってみた。惨敗であった…。
歌舞伎町は俺には合わねぇ…。
早々に見切りを付けた私は、次に池袋の地下道に行って唄ってみた…。
ここで ようやく感触を掴み、その後 約一年間 毎週火曜日の深夜の路上ライブを続けてみた。
そして2000年代となり アコギバブルが起きる。
1990年代末期から、斉藤和義・山崎まさよし…あたりの台頭で地味ながら復権の兆しがあったアコースティック音楽に ‘ゆず’の出現が一気に火をつけた。
地道な路上ライブを続けた後の‘ゆず’のサクセスストーリーは、それまで日陰者であったアコースティックミュージックを一気にメジャーなものに押し上げてしまった。
何だか 路上で歌っていれば、ひょっとして‘ゆず’みたいに自分もプロのミュージシャンになれるかもしれない…
街には そんな夢を描いた アコギ少年達が溢れ、新宿・渋谷・池袋など深夜の駅前では 連日 大勢のストリートミュージシャン達が 夢を追いかけて歌い叫ぶ…そんな姿が日常の光景となっていった。
私の私見だが、‘ゆず’の出現前までは、アコギで路上ライブをやるものなど数えるほどしか居なかった。私は毎週火曜日、深夜午前0時から朝の5時くらいまで、池袋の地下道を独占して ひとり気兼ねなく唄っていたのだが、アコギバブル以降、地下道には 連日5〜6人のアコギ少年達が溢れ、互いに蹴散らし合うかのように叫び唄う状況となってしまった。
堪り兼ねて地上に上がり駅前で唄える場所を探してみれば、ここも2m置きに唄い叫ぶ若者達が10数人…
無理だ!とても唄える環境じゃ無い…。

途方にくれていた私は ある日 地元 江古田駅南口の駅前で唄っている2人組の若者と出逢う。
話を聞いてみると、彼らも数ヶ月くらい前から始めたとのことで、
今まで特に 警察からも何も注意されたことは無いと言う。
新宿や渋谷 池袋といった大きな繁華街ならともかく、
こんな すぐ近くに民家もあるような小さな駅で路上ライブなど出来ないだろうと、始めから 江古田は視野に入れていなかった。
しかし改めて見てみると、南口は商店街も広く民家からは比較的離れており、終電が過ぎるまではそれなりに人通りもある。
これは案外いけるかも…
私は彼らがやっている週末を避けて、毎週木曜日の夜 午後10時〜午前1時の路上ライブを始めることにした。

当時はアコギバブルの真っ只中ということもあり、うちのお店も忙しく連日休みも殆ど無い状況。
それでも毎週毎週木曜日の夜、雨の日も風の日も雪の日も…休むことなく江古田駅前路上ライブを続けていった。
そんな慌ただしい日々の中で本当に様々な出来事があり、たくさんの人達との出逢いがあったのだが、それはまたいつか 時間をかけてゆっくり書いてみたいと思う。
とりあえず本題に戻るが、今から10年ちょっと前のある夜、
いつものように木曜日の夜、私は江古田駅前で唄っていた。
ちょうどNSPの「さようなら」を歌い終えたところだった。
一人の女性が私に話しかけてきた。
「何で こんなところでNSPなんか唄ってんですか〜?」
…これが私と 今の奥さんとの出逢いである。
そこから先の詳しい話は省略させてもらうが、
この出逢いをキッカケに 様々な意味で私の人生は大きく変わった。
世の中、路上ライブをやっている人間は山のようにいると思うが、
NSPを唄っていて奥さんに拾われた人間は私くらいなものだろう。
後日 NSPの中村さんとお仕事をした際に この話をしたところ たいへん喜ばれ、その日のステージトークでの話題にしてくださった。
非常にありがたいお話である。

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…さてさて、2回に渡り長々と語ってしまった。
何だか殆ど ちょっとした自分史のようになってしまったが、
それにしてもまた、私の人生 随分いろいろと節目があったものだ…。
結局は何だかんだ あれこれいろいろあって現在に至るわけである。

そういえば昔 大学に入りたての若い頃、手相研究会の人に一度だけ手相を見てもらった事がある。
「けっこう波瀾万丈な人生を送りそうですが、意思が強い方なので何とか乗り越えてゆけるでしょう。」
…そんなふうに言われた事を ふと思い出した。

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2017年11月01日

ブログ企画【繋】第63回テーマ「節目」

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毎度の事だが、 今日から11月、
本当に早いもので、気が付けば今年も残りあと2ヶ月である…。

毎月1日恒例のブログ企画【繋】
今月のテーマは 本日11/1が誕生日、“鈴木んぐ”さんからのお題で
「節目」とのことである。

〜私事ですが、今回記事の11/1、私の誕生日でありまして、
また、今年はほかにも私にとって特別に意味のある節目の年でございまして、、
人生において、幼き日より、年老いるまで、きっとこの先もずっと、
「節目」というのが誰しもあるんちゃうかな?って思うわけでして。
あぁ、あの日が、俺にとってのターニングポイントだったなぁー(シミジミ)とか、
あの人に、あの言葉に出会ってなかったら
今頃あたしゃ路頭に迷っていたよ(←ちびまる子ちゃん風に)みたいな、、
色々考えましたが、今回のお題を「節目」とします。
させてください。〜

…以上、鈴木んぐさんからのお言葉である。
(何はともあれ、お誕生日おめでとうございます。)

さて、思い返せば 私の約53年の人生の中においても
いくつかの節目は確かに存在するわけで、
以下、思いつくものをざっと書いてみるとする。
何だか ちょっとした自分語りになってしまうが、御容赦いただきたい。

1《高校1年生の夏、始めてギターを手にする…》

当初は軽い気持ちだった。
そもそもの動機は、ギターの弾き語りができた方がカッコイイ…という至極不純なものであった。
まさかその後 自分の人生において、唄うという事が 大きな意味を持つことになろうとは、当時は夢にも思っていなかった。

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2《高校2年生になる時に 父の仕事の都合で広島から東京に引っ越し、
東京の高校に転校する…》

高校1年生の冬に父は東京に転勤となる。
私は選択肢として、広島に残り 大学に通っている兄と2人で部屋を借り現在の高校に通うか、編入試験を受けて東京の高校に行くか、どちらかを選ぶこととなった。
当時 漫画家を目指していた自分は、やはり東京に行った方が漫画家を目指すには何かと便利だと思い 東京行きを選択、編入試験を受けて東京の高校に転校することとなった。
広島にいた頃の自分は まあまあ友達も多く、
漫画など描いていたこともあり それなりに楽しく学校生活を送っていた。
しかし、中途半端な時期に見知らぬ東京に出て来た田舎者の私は、
転入した高校で人生初めてのイジメというものに遭遇する。
まあ今から思えば 単に面白がってからかわれていた程度のものだったのだが、それまで経験が無かった事もあり萎縮した私は一気に暗い性格になり誰とも話せなくなってしまった。
この状態は高校3年の秋近くまで続く。

3《高校3年の文化祭、立川市民会館での発表会に友人と組んでいたフォークグループで参加…》

そんな状態でありながら、当時の私は美術部と漫画研究会とギター倶楽部の三つを掛け持ち、さらにはオタクな友人たちと「特撮連合」なる研究会を立ち上げるなど、暗いながらに結構あれこれやっていた。
そして高校3年秋の文化祭、陰気な私に付き合ってくれる友人たちと3人組のフォークグループで立川市民会館での発表会に出演。
〈サイモン&ガーファンクル〉や〈かぐや姫〉のカバー3曲に私のオリジナル2曲を演奏。
約20分のステージであったが、これは予想外に好評で結構な拍手喝采であった。
実はこの日は、以前に私をイジメていたツッパリ不良連中達もバンドを組んで参加していたのだが、控え室に戻った私たちに、かつて私をイジメていた奴の一人が
「やるじゃん!」と声をかけてきたのだ。
これは全く予期せぬことであり たいへん驚いた…と同時にとても嬉しかった。
いろいろ肌の合わないところはあっても、音楽でなら 彼らとも対等な立場に立てて 何か分かり合えるかもしれない…
そんな思いがして自信にもなった。
それは その後の私の人生にとって、とてもとても大きな出来事であったと思う。

4《日本大学芸術学部美術学科に入学、フォークソング倶楽部に入部…生涯の師匠 小池真司と出逢う》

日芸に入学した私は さっそくフォークソング倶楽部に入部する。
当時の日芸フォークソング倶楽部は今から見てもかなりハイレベルで、後にプロのミュージシャンになった人が結構何人もいたりした。
そんな中でも、一年先輩の小池真司と出逢った事は、後の私の人生に大きな衝撃と影響を及ぼした。
自分でいうのも何だが、私は音楽的には結構器用な方で、中学生の頃からオリジナル曲を作り、大学入学時点で既に100曲くらいのオリジナルを持っていた。
ギターも比較的 短期間で弾き語りが出来る様になり歌もそれなりに唄え、あまり唄うということについて深く考えたことは無かった。
(今から思えば 随分と自惚れていたものだと恥ずかしくなる。)
しかし 小池真司の唄を聴いた私は、強烈な衝撃を受け 完全に打ちのめされてしまった。
何というか、魂を削って唄う、己の醜さ 弱さ 狡さなど負の側面を曝け出し血を吐くように叫び唄う。
とにかく言葉では上手く伝えられないのだが、私は打ちのめされた。
そして それまで自分の作って来た歌が とても恥ずかしくなった。
みんな嘘っぱちだ…、何となく〈さだまさし〉何となく〈ふきのとう〉何となく〈オフコース〉等々…、
全部よく出来た模造品でしかない。
どれひとつ、自分のリアルな本音や感情が入っていないじゃないか…。
まして自分の歌声の何と空虚で魂の希薄なことよ…。
私はそれまで書き溜めて来たオリジナル曲を全て封印することにした。
とにかくリアルな感情を歌わなければ、借り物じゃない自分の言葉で唄わなければ…。
自分も小池真司になりたい、あんな風に魂が震えるような歌を唄いたい…。
それまでは抒情派フォーク路線で 経験もしてないラブソングを想像で書き得意になって唄っていた私は、一気にマイナーコード絶叫フォークシンガーへと変貌していった。
何のことは無い…今にして思えば 結局は小池真司の真似をしていただけだったのだが…。
とにかく当時の私は、小池さんとの出逢いをキッカケに《真実の歌を唄う》という事を考え始めた。
ちなみに その小池さんは現在もバリバリに現役で活動中である。
昔以上に物凄い表現者として、アングラフォーク界隈ではそれなりの存在であるのだが、そのスタイルが現在のメジャー音楽シーンとは全く相入れないため、残念ながら ずっとインディーズのままである。〜

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5《大学1年の9月に父を脳梗塞で亡くす》

〜突然 何の前触れもなく、父は仕事先で倒れ帰らぬ人となった。
当時の私はかなり遅めのプチ反抗期を迎えた頃で、父親とあまり仲良く話もしていなかった。
それまで世田谷の千歳烏山の社宅で父母と私の3人で暮らしていたのだが、父の死後は社宅を出て母と2人で椎名町のマンションを借りて住むこととなった。
父はかなり厳格な人で、いい加減な事や不真面目な事は許さない質で、私も父の手前、かなり生真面目に生きて来ていた。
しかし 突然 重石となっていた父を亡くしたことで、
その後の私は徐々に緩んで行ってしまったのである。〜

6《翌年9月から、現在のお店でアルバイトを始める…》

〜キッカケは《ガロ》であった。
高校2年の冬の頃、突然《ガロ》にハマってしまった。
(フォークグループの方で漫画雑誌の方では無い 念の為)
一般的には「学生街の喫茶店」一曲の一発屋のようなイメージが強いが、実はとてつもなくカッコいいアコースティックサウンドと 抜群のコーラスワークを持った物凄いグループなのである。
残念ながら当時は既に解散していてレコードも廃盤となっていた為、あちこち中古レコード屋を探し回っては一生懸命に集めたものだ。
そんなガロが私が浪人中の1983年7月に再結成(3人のメンバーのうち2人だけでの再結成)して ライブをやるとの情報を〈ぴあ〉〜懐かしい〜で発見!
場所は江古田のライブハウス…。
江古田…?どこ…?とりあえず行くしか無い!
それが私と この江古田のライブハウスとの出会いであった。
それまでに数回、〈ふきのとう〉などのコンサートをホールで観た事はあったが、私にとっては人生初のライブハウス体験であった。
第一印象は、何か薄暗い…狭い…。
しかし、間近な距離で憧れのアーティストの生演奏が観れる…
そのリアルな感じは素晴らしかった。
その時はただお客の一人として行っただけだったので それっきりだったのだが、その翌年、いろいろ美術大学を受験するも日芸しか受からず、結果 私は江古田に4年間 通うこととなる。
最初の一年間は千歳烏山から通っていたので学校が終わるとすぐ帰宅していたのだが、二年生になった春から学校近くの椎名町に転居したこともあり、アルバイトを探していたところで お店にバイト募集の張り紙を発見!
そして私はこの江古田のライブハウスで めでたくバイトをすることとなったのだ。
そして、ここでの様々な経験と出逢いが、後の私の人生を大きく変える事となる。

その辺りを更に詳しく語ってゆきたいところなのだが…
残念ながらそろそろブログアップの締め切り時間となってしまった。

以下、
7《学校を卒業したその秋に結婚…》
8《いろいろあって10年後に離婚、ヤケクソおこして社長にたてついた結果 リストラを喰らう…》
9《行き場がなくなり 現在のお店に舞い戻る…》
10《その後、江古田駅前で夜中に唄っていたところを現在の奥さんに拾われる…》

等々…続きを予定しているのだが、このペースで書いてゆくととんでもない長文になってしまう。
時間も無くなったので、たいへん申し訳ないが 続きは後日 第二弾として発表するということで、今回は筆を置かせていただきたい。
(筆を置く…というのも随分と古風な言い回しだ…実際はパソコンで書いているのだが…。)

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2017年10月01日

ブログ企画【繋】第62回「もうダメかも知れないものが飛んでくる時 何思う?」

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毎度の事だが、早いもので 今日から10月、
短い夏は中途半端に過ぎ去り、すっかり涼しくなってきた今日この頃…
毎月1日恒例のブログ企画【繋】
今月のテーマはtakeさんからのお題で
「もうダメかも知れないものが飛んでくる時 何思う」とのことである。

《 Jアラートがなり 確実に自分の頭上に何かが落ちてくる。
それは VXかサリンか核 原子か水爆か中性子か
今の情勢で もうダメかも知れないものが飛んでくる時 何思う? 》
…とのお題主のお言葉…。

なるほど、ここ最近の物騒な世の中…
困った独裁者が放ったミサイルが うっかり頭上をかすめる御時世だ。
ひょっとしたら、今この瞬間にも核弾頭を積んだミサイルが発射され
日本を直撃するかもしれない…。
こんなことが冗談ではなく、本当に起きるかもしれない世の中になってしまった。

さて、実際 そのような緊急事態になった時に何を思うか?
現実的に 北からミサイルが飛んでくると想定した場合、
時間にして精々10分…
実際は 何か考えている余裕などほとんど無いと思われる。

仮に 核弾頭を搭載したミサイルが東京駅上空で爆発した場合、
半径 6km範囲、だいたい  新宿渋谷くらいまでは跡形も無く吹き飛び、
半径14km範囲 川口浦和あたりまでは爆風で家屋がほぼ倒壊…
また半径34km範囲では熱線による火災や重度の火傷…
何とか爆風を逃れたとしても 放射能の影響で
結局は遠からず死に至るという悲惨な結果になるらしい。
Jアラートが鳴ったところで、たいして意味は無い。
せいぜい近場に地下鉄でもあれば何とか逃げ込めるかも…
(まあ、それだけでも随分役に立ってるとも言えるが…)
せめてもの救いは、死を覚悟する心構えが出来る…という
その程度の効果しか考えられないのが現実である。

さて、現在の世界情勢…
かなり危険なレベルに至っているのは御存知の通り。
想うに 今 北朝鮮が置かれている状況は
約80年くらい前に日本が直面していた状況と非常に酷似している。
当時の日本は 天皇を神と崇めた軍事国家、
満州国建国を始めとするアジア諸国への侵攻により世界的に孤立…
米国からの経済封鎖による資源の枯渇等々…
結局は現実的に勝てる見込みの無い戦争に踏み出してしまった。
その結果が、東京大空襲、神風特攻隊、沖縄の玉砕、広島・長崎への原子爆弾投下…
このような悲劇を招く結果になろうとは、
開戦当初の軍部首脳達は おそらく想像すらしていなかったであろう。
神国日本が負けるはずが無い…鬼畜米英…竹槍でB-29を叩き落せ…
こんな馬鹿げた思考を強制される、それがたかだか80年前当時の日本だったのだから、
私達に 今の北朝鮮を笑うことは出来ないはずだ。

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そして現在、あの時代よりも確実に 状況は悪くなっていると言わざるを得ない。
今の北朝鮮が80年前の日本と同じであれば、
追い詰めれば追い詰めるだけ、無茶な暴走を招く結果になる可能性が高い。
ある意味 これは、アメリカ対北朝鮮の争いの中に日本が巻き込まれているとも言えるのだが、
日米安全保障条約を結んでいる以上、
日本は無関係だなど、やはり言うことは出来ないだろう。
戦後約70年…、日本はアメリカの軍事力の傘の下に
現在の驚異的な成長を遂げてきたことは紛れもない事実である。
もしも日本が、アメリカのバックアップも何も無く、
何ひとつ自衛の軍備も持たない状況であったなら、
おそらく今頃は、ロシアに侵略されてるか中国に侵略されているか…?
かなり悲惨な状況になっていることは間違いない。
力を持たない国は他国からの侵略を受ける…
それは永い歴史の中で何度も繰り返されてきた事実である。
それは恐らく 現在の北朝鮮の立場にしても 同じ気持ちであろう。

《日本はスイスの様な永世中立国を目指すべきである…》
こんな意見を言う人も多くいるようだが、
スイスという国が 約4000人の職業軍人と約21万人の民間兵で構成された
強力な陸空軍隊を所有し 徴兵制度もある重武装中立国家であるということを、
果たして どれだけの人が知っているのだろうか…?
各家庭には小銃と爆薬が配られ、いざとなったら国中を焦土化しても闘う…
その代わりにどの国からも中立の立場を取るという、
それだけの覚悟が無ければ永世中立など名乗れない…
つまりは綺麗事では平和などあり得ないのが現実なのだ。

日本が 《 アメリカ vs 北朝鮮 》の争いに巻き込まれたく無いのであれば
憲法を改正した上で、正式な軍隊を所有するしかないのである。
《我々は丸腰です…。何の武器も持っていないので、そっとしておいてください…》
そんな都合の良い話を皆が聞いてくれるのならば、
きっと世界中から 紛争など全て無くなるだろう。
悲しいことだが この世界は、
侵略と略奪を何度も積み重ねた 永い歴史の上に成り立っている。
全ての人類が 国や人種を超えて理解し合い、
互いを尊び 争いを捨て去ることなど、絶対に無いと言って過言ではあるまい。
もし現在の北朝鮮に何かを言えるとしたら
本来ならば日本こそが、最も相応しい立場であることは間違いないのであるが、
しかし 悲しいかな 現在の我が国は、
アメリカの傘の下で動くことしか出来ない属国なのである。
私は政治家に正義や綺麗事、まして清廉潔白な人柄など求める気は無い。
裏で何をやろうが どの様な密約を交わそうが、国と国民を必ず守る…
それが政治家の仕事である。

話が少々 横路にそれてしまったので、本題に戻ろう。

さて 実際に核ミサイルが飛んで来るような危機的な状況に陥った場合、
最期は誰と どの様に死を迎えたいか…?
とどのつまりは それを問われることになるのだろう…

そういえば以前、やはりこのブログ企画【繋】の中で
似たようなテーマで書いたことがある。

2014年10月  第26回のテーマ「最後の晩餐」
http://aripanda1964.seesaa.net/article/406312888.html

この時は、近未来の最終戦争を描いた 1961年の東宝の特撮映画
「世界大戦争」の話を取り上げて、
全世界を巻き込んだ核戦争が起き 日本にも核ミサイルが迫る中
パニックを起こし逃げ惑う人々とは別に
静かに最後の食卓を囲む 平凡な主人公家族の話を紹介させてもらった。
要は もう確実に助からないという状況に置かれた時に、
ジタバタせずに 穏やかに最期の時を受け入れらるか…?
死を受け入れる覚悟があるかどうか…という話だ。

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もしも 今この瞬間、東京直撃の核ミサイルが発射され、
頼みの綱の 自衛隊の迎撃ミサイルも失敗してしまった場合…
なるべくならば 私は、最期の時を家族と共に迎えたい。
私と奥さんと義妹と猫2匹…
皆で手を取り合って最期の時を迎えたいと思うのである。
皆が家にいる時なら可能であろう。
もしも仕事などで外に出かけているような状況であれば、
何とかして家に帰れるように自転車を飛ばすだろう。
死ぬ時は家族と一緒に…
それが私の せめてもの願いである。

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posted by ありのぶやすし at 12:06| Comment(0) | ブログ企画「繋」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする