
可部は広島市の中心の最も栄えてる基町あたりから北へ約17Km、
バスで1時間近くかかるところ 盆地の中にある寂れた街である。
周囲を全て山に囲まれた土地で、街の中心を太田川という大きな河が流れている。
自然豊かな土地であり農業・林業が盛んであった。
私が住んでいた家の周りも 大きな水田が階段のように並び広がっており
子供達は毎日 田んぼの傍のあぜ道を通り小学校に通ったものだ。
小学校の裏からは福王寺山という大きな山へ続く道に繋がっていた。
一度 山から下りてきた野生の鹿が校舎の裏で跳ね回っていた事があったが、
さすがにその時は皆 驚いたものである。
そんな田舎町の可部も、私達一家が住み始めた頃には新興住宅地として開発が進み、山を切り崩して団地を作り 田畑を潰して住宅を建てたりと、人口が急速に増加していった頃であった。
小学校では一つのクラスに50〜60人近い生徒…ピーク時には一学年最大8クラスにまで膨れ上がり 全生徒数2000人を超えるマンモス学校になってしまい、教室が足りなくなって学校の隣の農地を借りてプレハブで教室を作り とりあえず急場を凌ぐという状況であった。
あまりのバタバタ状況が社会問題となり、私が3年生の時にテレビ局の取材が来て「教室が足りない!」という20分くらいのドキュメンタリー番組が作られ放送された。
詳細はわからないが、あれはNHK広島あたりの製作だったのだろうか?
今と違って家庭に録画出来るビデオなど無い時代…、
何処かに映像が残っていないだろうか…もしあれば 是非とも観てみたい。
朧げな記憶ながら、当時の先生や生徒達へのインタビューと授業風景、校舎やグラウンド…周囲の街々の懐かしい光景がいろいろ撮られていた筈だ。
結局 私が4年生になる時、団地側の方に新しく小学校が出来て 学校は分裂、生徒数も半分くらいになり かなり落ち着いた。
その反面 それまで仲の良かった友達も新しい小学校へと移ってしまい 淋しく思ったりしたものだった…。

さて、田舎町とはいえ 広島という土地柄…やはり野球人気が高く、
学校から帰ると近所の広場に自然と子供達が集まって、大きな子から小さな子まで 年齢関係なく一緒になって草野球をやるのが日課だった。
田舎街だから学習塾などと云うものも無く、あったのは精々〈そろばん塾〉くらい…、ほとんどの子供はそれすら行かず、放課後は皆 広場に集まって遊んでいた。
私も皆に混じって夕方 周囲が暗くなるまで遊んだものだ。
地域毎の少年ソフトボールチームなどもあり、年に2回くらいトーナメントの大会なども開かれていた。
野球の上手い子は皆から一目置かれるヒーローであり、昭和50年の広島カープ初優勝をピークに大いに盛り上がったものだった。
野球を始め、地域の子供会の行事もいろいろ盛んであった。
正月の〈どんど焼き〉、二月の節分の豆まき大会、
夏休みには子供会主催の一泊二日のキャンプに行ったり、
秋の神社のお祭りでは子供神輿などが繰り出され 皆で担いだりしたものだ。
記憶も朧げだが、東北あたりのナマハゲにも似たような、般若の面を被った人達が子供らを追いかけて叩き回る 恐い祭りもあった様な気がする…?
クリスマスにも何かやっていたような気がするが、ちょっと記憶が不確かだ…。
私が住んでいた家の近所には商店街すら無く ましてやスーパーマーケットなども無い…
バスで15分くらいかけて可部駅前の商店街まで行かなければ そういったお店は存在しなかった。
母が日常の食料品の買い出しなどに週二回くらいバスに乗って出かけて行くのに よく一緒に付いて行っていた。
現在のようにコンビニエンスストアすら無い時代、けっこう大変だったのではと 今更ながらに思うのである。

自然豊かな土地であるという以外 これといった特色の無い街ではあったが
私にはとても思い出深い街である。
四季折々の様々な風景は 今でも懐かしく思い出される。
春…田んぼ一面に咲いたれんげの花がとてもキレイだった。
桜の花は校庭以外ではあまり見た記憶が無いが、河原で母と二人 ツクシを採ったりもしたものだ。
梅雨時から夏にかけては毎晩 カエルの大合唱を聴きながら眠っていた。
盆地特有の内陸性気候の為、夏はとにかく蒸し暑い。
茹だるような暑さと強い日差し、陽炎揺れるグラウンドと山の緑の向こう
青い空にクッキリと白く浮かんだ大きな入道雲を思い出す。
夏休みは 朝早く起きて雑木林にカブトムシを採りにいった。
(その頃の私はカブトムシを始め、クワガタ、スズムシ、イシガメ、果ては庭でカマキリまで飼っていた。)
たまに自転車で遠出をして河で魚を獲ったりもした。
河原から眺めた夕焼けの美しさは今でも鮮明に覚えている。
夕方には皆で広場に集まって 花火をやって遊んだ。
家の裏を流れる小さな川にはホタルもまだ普通にいたし、
夜になれば空に満点の星々を観ることが出来た。
秋…学校へ向かう畔道沿いに咲くヒガンバナがとてもキレイだった。
夕暮れ時には田んぼの上を 赤トンボがたくさん飛んでいた。
毎年秋 近くの神社で行われるお祭りは 子供達の大きな楽しみであった。
何しろ商店街すら無いような田舎町、神社の参道沿いに並ぶ沢山の屋台、
たこ焼き、お好み焼き、リンゴ飴、チョコバナナ、綿菓子…
それから 如何にも子供の好きそうな景品を並べた射的やクジ引き 金魚すくい…
その日だけ特別に貰った僅かな小遣いを握りしめ、どれにしようかとあれこれ悩みながら散策するあのワクワク感…
本当 子供にとっては正しく年に一度のお祭りであった。
冬になればけっこう雪も降る。膝近くまで積もる事はざらにあった。
学校へ通う道も雪に覆われ、掻き分けながら歩いたものだ。
グラウンドも一面の雪、元気の良い子は外に出て雪合戦をしたり雪ダルマを作ったりしていたが、寒がりの私は教室にこもって黙々と漫画など描いたりしていた。
当時の教室は今のようなエアコンの冷暖房完備など無い。
夏は扇風機、冬は大きなダルマストーブで凌ぐのが当たり前であった。
水道からも水しか出ないので、指が痛いくらいの氷水で手を洗ったことを思い出す。


その頃は当たり前過ぎて気付かなかったが、今から思えば何て素晴らしい環境で育っていたのだろうか…。
こうやっていろいろ思い出して書いていると何もかもが懐かしくて涙が出そうになる。
多分 私が歳をとってしまったからだろう…妙に里心が付いてしまったようだ。
4年前の冬、33年ぶりに可部の街を訪ねてみた。
すっかり変わってしまった可部駅前の商店街を記憶を辿りながら歩いた後
バスに乗って移動し昔住んでいた家の辺りを散策…
最後に小学校と中学校へ通った道を 一人感慨に耽りながら辿り歩いてみた。
夜 何人かの友人達が集まってくれ 皆で酒を呑み、とても楽しいひと時を過ごした。
その時に強く思ったのだ…私の故郷はやはり可部の街であると。
根無し草のようにあちこちを転々とし 帰る実家すら無い人生であった。
ずっとこの街で暮らし 大人になった友人達を羨ましくも思った。
多分 住んでいる側からすれば いろいろ思うところもあるのだろうが、
永くその土地に根を下ろし生活して来た者だけが持つ何かが確かにあるのだ。
「生きるということは故郷を探す旅である。」
誰が言ったのか覚えていないが、昔そんな言葉を聞いた事がある。
人は皆、心の拠り所としての故郷を探しているのだろう。
もし 人が人生を終えた後に、魂が帰って行く場所というものがあるとすれば、
おそらく その場所こそが(たとえ生まれた土地では無くても…)その人にとって本当の故郷なのだろう…
そんな風に考える 今日この頃である。

さてさて、2回に分けてまとまらない思い出話を長々と書いてしまった。
本来なら一度にまとめてスッキリと書き上げなければいけないのだが、
多忙と遅筆と凝り性ゆえ…御容赦願いたい。
最後に、4年前に可部を訪れた後に書き上げた曲があるので、
歌詞だけになるが読んでいただければ幸いである。
「旅路」 作詞作曲/ありのぶやすし
まるで 何処か遠い国の
知らない街で迷ったような
何も頼るものも無くて 一人惑う夕暮れ
それは とても遠い昔
幼い頃に母の背中
探し回り 歩き疲れて 泣いて帰った道のり
ああ 人は なぜ いつも 旅人に憧れる
帰るべき故郷を 胸に抱いて眠る
空を渡る鳥の群れよ
風に吹かれ 流れる雲よ
知っているか 何処かにあるという
僕の帰る 故郷
昨日と同じ今日があれば
今日と同じ明日を願う
夢と呼べるものはなくても きっと生きてゆける
疲れを癒す部屋があって
柔らかな灯りと 暖かな食事
そばに愛する者が居るなら 何を望むだろうか
ああ 人は誰も皆 旅人であると言う
帰るべき故郷を 探し求め歩く
やがて いつか 命尽きて
土に還る時が来ても
風に舞って流れ着くだろう
それは 僕の故郷
きっと 僕の故郷

さてさて、ブログ企画【繋】は 毎月1日に、
参加メンバー全員が共通のテーマでブログを書くという企画です。
他の皆さんのブログも是非ご覧になってみてください。
ブログ企画【繋】参加メンバーのブログ
「内田祥文のKeep Hope Alive♪」
http://ameblo.jp/uchida-shobun/
peixe grande take
https://ameblo.jp/peixe-grande
津軽三味線山中信人の朝刊・夕刊〜
http://ameblo.jp/nobu483/
鈴木NG秀典(すずきんぐ)「鈴木NG秀典ーだー。のブログ」
http://ameblo.jp/ramen-kuitee/
モリミカのブログ
http://ameblo.jp/mmika0716/
こいぬまめぐみブログ
https://note.mu/koinuma_megumi