
少し時間が経ってしまったが、作年の2017年3月1日(水)に ムッシュかまやつさんが亡くなられた。
うちのお店でも長年に渡っていろいろお世話になってきた方である。
ちょうど二年前、2016年の2月11日にライブをやっていただいたのが最後になってしまった…。
その後 夏に体調を崩し入院されたと聞き 心配していたが、
秋には退院されたとのことで またお逢いできる日を心待ちにしていたところだった。
ムッシュかまやつ (1939年1月12日 - 2017年3月1日)
今更 説明の必要も無いだろうが、
日本のロック黎明期から現在に至るまで
日本の音楽界を牽引してきた偉大なミュージシャンである。
デビューは1960年、ソロ歌手《かまやつヒロシ》としてで、
《ザ・スパイダース》への参加よりずっと前の事である。
その後 1963年にスパイダースに加入、
1970年にソロ活動に転じてからは、70歳を超えても精力的にライブを続け、
もはや生きた伝説とも云うべき存在だっただけに本当に残念でならない。
あらためて故人の御冥福を心からお祈りするとともに
私自身の個人的な かまやつさんの想い出をここに記しておきたい。
私が かまやつひろしさんと初めてお逢いしたのは
かれこれ もう15年くらい前のことになる。(2003年3月30日)
今のお店に復帰して数年が経った頃…
連日無名のアマチュアから著名なプロの方まで沢山のミュージシャンと接する毎日…
いろいろな試行錯誤の中から 自分なりの音響と理想のライブハウス作りを目指し
日々 悪戦苦闘している頃だった。
それまでにも 有名なプロミュージシャンの方々を何度もお迎えしてはいたが、
さすがに《ムッシュかまやつ》となると格が違う。
レジェンド中のレジェンドである。
頑張って最高の音響でお応えしたい…と云う想いと共に
私ごとき 自己流のPAで大丈夫だろうか?…と云う不安が入り混じり
ライブ当日が近づくにつれ、かなりの緊張とプレッシャーを抱えていた。
そんな折、偶然 私が持っていたPA関連の雑誌に
かまやつさんのインタビューが掲載されているの発見、
その中で かまやつさんが《理想のライブPA》について語っているところがあったので、以下 記憶を頼りに簡単に紹介させていただく。
《僕にとっての理想のPAはですね…、まず外音を全部切ってもらう。
モニターの音だけこちらに返してもらって、それを自分で思う最適なバランスにしてもらうんですね。
それが決まったら、PAの人に僕のところに来てもらい 音を聴かせて
「これと全く同じ音で外に出してくれ」と伝える。
これが自分の想う理想のライブPAですね。》
音響を多少齧った事がある人ならだいたいのニュアンスは伝わるだろうか…?
とりあえず私は これだ!と思い、
来るライブ当日はこのやり方でやってやるぞ…と密かに心に決め
いよいよ その日を迎えたのであった。
さてさてライブ当日…
この日のムッシュは ドラムのグリコさんだけをサポートに迎え、
自身のエレキギターとドラムだけというシンプルな編成。
こちらの準備は万端である。
予定されていた入り時間から 少し遅れて ついにレジェンドは現れた。
「おはようございます!よろしくお願い致します!」
「ああ、よろしくね〜。」
雑誌やテレビで見慣れた 気さくな笑顔でムッシュは応えた。
私の緊張もマックスである。
さて、落ち着いた頃を見計らい、
「リハーサル、いつでも行けますので!」
と声をかけた…ところが、
「あ…リハね…。適当でいいよ。疲れるから…。」
…と、何とも拍子抜けの返事が帰って来たのである。
「えぇ〜?」と思いながらもリハーサルを始めたのだが、
5分くらい軽く合わせただけで
「OK、じゃ 宜しくね〜。」
…と、あっさりリハは終了してしまい、
ムッシュとグリコさんは そのまま江古田の街に呑みに出かけてしまったのだ。
いや…私 まだ何もしてないんですけど…⁉
《俺の理想のライブPA》は…?
なす術も無く 呆然と立ち尽くす私がそこに居た。
そして本番ギリギリに戻って来た二人は
そのままステージに登ると一気に熱い演奏を繰り広げたのだ。
ほとんどリハもやっていない ぶっつけ本番に近いステージ、
しかしながら、永年に渡って培われてきたロック魂がビンビンに伝わってくる…
圧感の演奏であった。
これが私のムッシュ初体験、
PA的には‘成す術もなくやられた一日’であった。
その次のムッシュ来店は何年後くらいだったろうか?
この時はドラム・ギター・ベースを従えたバンド編成。
前回の経験から、事前にある程度のセッティングをして迎えたのだが、
やはり ほとんどリハは無し…
早々に切り上げ、メンバー皆で江古田の街に呑みに繰り出していった。
そして本番直前に帰って来ると
メンバー達とそのままステージに上がり、
またまた熱い演奏をブチかましたのだ。
何というか、この人達は基本的にPAに頼らない、
ボーカルマイク以外の楽器の音は全て自分たちで決めてしまう。
想像するに 60〜70年代初頭の日本のロック黎明期のライブ環境など、
音響的にはかなり貧弱な現場がいくつもあっただろう。
おそらく、モニターすら無いような環境下でのステージを何度も経験してきたのではなかろうか?
その会場の広さに合わせて、アンプの音量、ドラムの強さ等のバランスは自分たちで決めてしまう…、
‘どんな悪環境でも俺たちはやれるよ…’
そういった強さを持っているのであろう。
故にリハをあまり重視しない。
どんな環境下でも最高の演奏をやる自信があるからだ。
こんな人達を相手に小細工は不要、
演者が出してくる音を そのまま客席に届ければ良い。
そして数年後、三度目のムッシュをお迎えした時は
私も万全の準備で迎え、例によって短いリハながらも
やっと確かな手応えを感じる音で届けることが出来たと思う。
その後も何度か、ムッシュのライブの音響を担当させていただいた。
さすがに年齢ゆえか、歌詞を忘れたりギターを間違えたりという場面も時折見られたが、
70歳を超えてなお 精力的にステージに立ち続ける姿は、正に生きた伝説と呼ぶに相応しいものであった。
ところが 2013年1月のライブのしばらく後、久しぶりに予定されていたムッシュのライブは
ムッシュの体調不良の為 直前でキャンセルとなってしまった。
思えば その頃で多分73か74歳くらい…、
年齢的にもかなりキツくなって当然だと心配していたが、
しばらくして またライブを復活されたと聞いて一安心したものだ。
そして一昨年の2016年2月11日、久しぶりのムッシュをお迎えする。
今回は いつも御馴染みのメンバーをバックにしたフルバンド編成に加え
ゲストサポート的な方々も数名参加という大所帯、
しかし ムッシュはリハには参加しないと云う…。
そしてライブ当日のリハーサル…先にバンドのメンバーが到着、
ムッシュ不在のまま 音を合わせて行く。
バタバタとリハが進む中、ふと気が付くと
客席の一番後ろにムッシュがちょこんと座っているではないか。
リハに気を取られていたとはいえ、全く気配を感じさせることなく、
うっすら微笑みながらステージを見つめてる姿に
何となく不安な気持ちになったのを覚えている。
そのままリハに加わる事もなくムッシュは食事に出かけ、
例によって本番直前に帰って来た。
そしてステージが始まる。
最初ムッシュが一人で登場、一曲弾き語った後
客席に来ていた元スパイダースのドラム前田富雄さんとベースの加藤充さんをステージに引っ張り上げ、一緒に演奏を始めた。
打ち合わせも無しの急なセッションの為、演奏はかなりボロボロであったが、
同窓会のような和やかな雰囲気であった。
しかしその後 ムッシュは楽屋に引っ込んでしまい、
代わりに昔のウエスタンカーニバル時代の仲間の橋本タイジさんがステージに登場、
約30分近くローリングストーンズのカバーなどを演奏したのだが…
実際のところ 客席の反応は「誰、この人…?」と感じている人が多かったように想う。
そして後半 ムッシュが再びステージに登場、みんなで怒涛のセッションを繰り広げるのだが、
正直 バックのメンバーの手堅い演奏に助けられてはいたが、
ムッシュ自身は声も出てなく歌詞も跳び、ギターもかなり危ない感じだった。
それでも ヘロヘロになりながらも楽しそうに演奏するムッシュ、
(この時 ムッシュ77歳!)
おそらく、長期間続けてステージに上がることも困難だったのだろう…
この年齢でバンドを従えてロックをやっていること自体 物凄い事だったのだが…。
「お疲れ様でした、またよろしくお願いします。」と言いながら、
もうこれが最期になるかもしれないと…薄々感じている自分がいた。
それから約半年後の9月、ムッシュが緊急入院、ガンに侵されていることがニュースとなる。
ああ、やっぱり…という思いが頭をよぎった。
年齢を考えれば、ステージに立っていることさえ奇跡のようなものだったのだ。
ついに来る時が来たのか…という思いだった。
それから暫くして退院されたとのニュースを聞き、
またいつの日かLIVEを演って頂けたらと 微かな期待をしていたのだが、
その後は入退院を繰り返す日々が続き…
年末に行われた堺正章さんの70歳記念ライブに飛び入り参加でステージに上がり、
1曲一緒に歌ったのが公の場に姿を現した最後となってしまった。
年が開けて2017年3月1日、ひっそりと亡くなられたことがニュースで伝わった。

(2012年2月19日、マーキーでのステージ)
以上が私の個人的な ムッシュかまやつさんの想い出である。
私のPA人生において、音楽とは…LIVEとは何かという事を
いろいろと教えていただいたような気がする。
あれこれ書いてきた中には 多少の記憶違いもあるかもしれないが
御容赦頂きたい。
最近 とみに記憶が曖昧になって来ている。
現在の私は53歳…
20年後に果たして、唄い続けている事が出来るのだろうか?
いまでも あの人懐っこい笑顔が目に浮かぶ。
あんな風に 死ぬまで音楽を楽しんで続けられたなら…
それは きっと最高の人生であろう。

マーキーの客席後ろの壁に かまやつさんのサインが残っている。
何ともユニークな自画像と03.3.30の日付にムッシュと綴られたサイン…
背中を丸めて書いていた姿が思い出される。
そして入口階段途中の壁に貼ってある、私が作った稚拙な2016年2/11ライブの告知チラシ…
マーキーに来た際には、ぜひ確認して欲しい。
ロックに生涯を捧げた男が 確かにこの場所にいた事を
忘れずに 記憶していただければ幸いである。

追記…
実は私の中での当初のかまやつさんのイメージは、
「我が良き友よ」や「シンシア」という吉田拓郎がらみの楽曲の印象が強く、
どちらかと言えばフォーク系なアーティストといったイメージを持っていた。
今から思えば勉強不足も甚だしい…と恥ずかしくなる話だが、
実際 そう捉えられる事は少なくないようで、
かまやつさん自身「我が良き友よ」を歌う時には、
「俺 この曲嫌いなんだよね〜。そもそも これ、金のためにやったんだよ、
そしたら売れちゃってさー、何か俺の代表曲みたいになっちゃって
いやいや、俺 こんな3コードみたいな単純な曲 書かねえし…」
…などと冗談っぽく言っていたものだ。
その割には 案外いつも楽しそうに歌っているので
口では あんなこと言いながら 実は けっこうお気に入りだったのではないかな…と、想っている次第である。