
さて、今月1日に 書きかけのままでブログをUPしてから かなり間が開いてしまった。
月が変わってしまう前に 残りを書いておかねば…。
前回は、大学に入った後 現在のお店でバイトを始めるところまでを書き留めたので その続きから…。
7《学校を卒業したその秋に結婚…》
さて、めでたくライブハウスでバイトを始めることとなったのだが…
まあ 何と言うか、いろいろと勉強、経験になった。
例えば、それまでは何となく ある程度 演奏がレベルアップしてゆくにつれ徐々にお客も増えてゆき、階段を登って行くようにプロへの道が開けて来るものなのかな…と思っていた。
ところが いざ現場に入ってみれば、演奏はとても上手いのに お客さんが全く来ない人の何と多いことか。
反対に 何でこのレベルでこんなにお客がいっぱい来るんだろう…と不思議に思うような日も多々あった。
今ならば、お客さんを呼べるということは やはり何がしかの魅力があるわけで、それは決して技術的な側面だけで測れるものではないとわかるのだが、当時はなかなか理解出来なかったものだ。
また、音楽をやってゆくうえでのシビアな金銭事情なども目の当たりにすることとなる。
自分はもともと プロのミュージシャンになりたいなどとは全く考えてもなかったのだが、実際に生でリアルな現実を目にすると、プロになる人というのは やはり何か自分とは違う特別な人なのだ…という思いを強くした。
何だろう…? 技術だけでは計れない、人を惹きつける人間としての魅力…そういったものを持った人でなければ どんなに演奏が上手くてもプロにはなれないんだな…と、
そんな事を何となく感じたりしていた。
さて、少し「節目」というテーマから 話が横道にそれてしまったかもしれない…。
とにかく当時の私は 父を亡くし重石が取れてしまった反動で、当初 大学に入った頃の目標であった 教職を取って 美術の先生になる…という話もすっかり忘れてしまい、授業にもろくに出ずに フォークソング倶楽部とバイトにばかり精を出すといった毎日であった。
そんな日々を過ごした後に 私は無事に大学を卒業、
そして印刷関連の製版会社に就職。その年の秋に学生時代から付き合っていた二つ年上の彼女と結婚する。
まだ就職したばかりの先も見えない状態で結婚など早すぎるのでは…との周囲の心配は当然あったが、当時の私は“愛があれば大丈夫!”と信じていた。
残念ながら 10年の時を経た後、二人は別れる事となるのだが…
私は この若き日の決断を、今でも決して後悔はしていない。
8《いろいろあって10年後に離婚、ヤケクソおこして社長にたてついた結果 リストラを喰らう…》
先にも触れたが、結婚10年目にして私は離婚を経験することとなる。
理由は様々なものがあるのだが、ここでそれを語ったところで 読んでいる人には面白くも何とも無いだろうから 省略させてもらう。
ただ 当時働いていた会社の過酷な労働環境によるすれ違いが大きな一因であったのは確かであった。
何しろ 朝7時に家を出て帰宅は午前1時、月の残業は150時間を超え、週に2回は泊まり、休日出勤も度々というメチャクチャな状態であった。
私は当時 現場のリーダーをやっていたので、かなり酷い状態でありながらも働くしかなかった。5年前に家を買ったこともあり、家庭の為、ローンの為と、いろいろ会社に不満があっても我慢して働いていた。
しかし、結果として家庭は崩壊。こうなったのも そもそも劣悪な労働環境を改善しない会社のせいだ…と開き直った私は、次第に会社…特に社長に対して何かと反抗的になって行った。
そんな中 ある日 どうにも我慢できないことがあり 社長を捕まえて
「あんたがそんなだから、誰も社員が付いて来ないんだよ!」
…と、皆の前で啖呵を切ってしまった。
それから数日後、社長室に呼び出され クビを宣告される。
もともと会社に嫌気がさしていた事もあり、その日のうちに荷物をまとめて辞めてしまった。
35歳を目前に控えた春の事であった。
9《行き場がなくなり 現在のお店に舞い戻る…》
その頃 私がやっていた仕事は、印刷関連の製版という工程の中の‘レタッチ’という職種であった。
説明が難しいのだが、かなり細かい神経を必要とする専門職で
私が大学を出て就職した頃は これを身につけておけば一生ものと言われ、腕のいい職人は結構よい給料をもらえる仕事であった。
しかし、私がリストラを喰らった1990年代末頃は この製版の世界もデジタル化が進み、それまでのルーペを覗きながら0.1ミリ単位の手作業を要求されるというアナログな仕事から ネットを使ったデータのやり取りとパソコン等を使っての作業中心へと大きく変化してゆく頃だった。
まだ手作業のアナログなレタッチでの求人もそれなりにあったのだが、
将来的な視点で考えれば 先の無い職種であった。
仮にレタッチで再就職したとしても、5年後には確実にリストラされてしまうだろう…
あと何よりも、連日 納期に追われて まともに家にも帰れないような仕事は もうやりたくなかった。
10年間、家庭の為、会社の為と 自分のやりたいことを犠牲にして働いて来た結果が 家庭崩壊とリストラであった。
これからの人生は もう自分の為だけに生きよう…そう思った。
私はいくつかの会社の面接を受けてみた。
主に接客関連の職種であったが、アルバイト程度の経験しかない畑違いの35歳の男を雇ってくれる会社など 何処にもなかった。
こうなったら いくつかバイトを掛け持ちして生きるしか無い。
一人分の生活費くらいはギリギリ稼げるだろう。
それでも 一つくらいは楽しい仕事がいいな。
そういえば、昔 ライブハウスでバイトしてた時は楽しかったな。
週に一日でもいいから また働けないかな…
そんなわけで 久しぶりに懐かしい江古田のライブハウスを訪ねた。
「すいません、今 バイト募集してませんか〜?」
実は当時 この江古田のライブハウスは 結構ヤバイ状況にあった。
中心になっていたバイトリーダーが辞めてしまい、経験の浅い自覚の無いバイトスタッフばかりになってしまい、音響面 接客面 共にかなり酷い状態が続いている状況であった。
「いいところに来てくれたね〜、実は今 現場を任せられる人を探していたところなんだよ。」
社長にも歓迎され、私は10年ぶりに めでたくライブハウスの仕事に復帰することとなった。
10《その後、江古田駅前で夜中に唄っていたところを現在の奥さんに拾われる…》
そして ライブハウスの仕事に復帰してからというもの、
それはもう一言では言えないくらいに実にいろいろな事があった。
今回のテーマとずれるので省略させてもらうが、
学生時代にバイトしていた頃とは比較にならないレベルで、様々な事を経験し考えさせられた。
バイトに復帰する頃とほぼ同じくして 自身のライブ活動も再開したのだが、何しろ10年間 全く音楽とは無縁な生活をしていた為、久しぶりの復活ライブは相当に悲惨なものであった。
技術的なものも随分と衰えていたのだが、何よりも久しぶりに人前で歌を唄うという状況に メチャクチャに緊張してしまった。
足も手も震え、声も思うように出ない…
10年ぶりのステージは、まるで初心者のように悲惨でボロボロな演奏になってしまった。
久しぶりのステージに向けて、結構自分なりに練習もしていたのだ。
それなのに この有様…、駄目だ!もっと人前で歌うことに慣れなくては…。
私はとりあえず、ステージ度胸をつけるために路上ライブをやってみることにした。
最初はまず、新宿歌舞伎町に行ってみた。惨敗であった…。
歌舞伎町は俺には合わねぇ…。
早々に見切りを付けた私は、次に池袋の地下道に行って唄ってみた…。
ここで ようやく感触を掴み、その後 約一年間 毎週火曜日の深夜の路上ライブを続けてみた。
そして2000年代となり アコギバブルが起きる。
1990年代末期から、斉藤和義・山崎まさよし…あたりの台頭で地味ながら復権の兆しがあったアコースティック音楽に ‘ゆず’の出現が一気に火をつけた。
地道な路上ライブを続けた後の‘ゆず’のサクセスストーリーは、それまで日陰者であったアコースティックミュージックを一気にメジャーなものに押し上げてしまった。
何だか 路上で歌っていれば、ひょっとして‘ゆず’みたいに自分もプロのミュージシャンになれるかもしれない…
街には そんな夢を描いた アコギ少年達が溢れ、新宿・渋谷・池袋など深夜の駅前では 連日 大勢のストリートミュージシャン達が 夢を追いかけて歌い叫ぶ…そんな姿が日常の光景となっていった。
私の私見だが、‘ゆず’の出現前までは、アコギで路上ライブをやるものなど数えるほどしか居なかった。私は毎週火曜日、深夜午前0時から朝の5時くらいまで、池袋の地下道を独占して ひとり気兼ねなく唄っていたのだが、アコギバブル以降、地下道には 連日5〜6人のアコギ少年達が溢れ、互いに蹴散らし合うかのように叫び唄う状況となってしまった。
堪り兼ねて地上に上がり駅前で唄える場所を探してみれば、ここも2m置きに唄い叫ぶ若者達が10数人…
無理だ!とても唄える環境じゃ無い…。
途方にくれていた私は ある日 地元 江古田駅南口の駅前で唄っている2人組の若者と出逢う。
話を聞いてみると、彼らも数ヶ月くらい前から始めたとのことで、
今まで特に 警察からも何も注意されたことは無いと言う。
新宿や渋谷 池袋といった大きな繁華街ならともかく、
こんな すぐ近くに民家もあるような小さな駅で路上ライブなど出来ないだろうと、始めから 江古田は視野に入れていなかった。
しかし改めて見てみると、南口は商店街も広く民家からは比較的離れており、終電が過ぎるまではそれなりに人通りもある。
これは案外いけるかも…
私は彼らがやっている週末を避けて、毎週木曜日の夜 午後10時〜午前1時の路上ライブを始めることにした。
当時はアコギバブルの真っ只中ということもあり、うちのお店も忙しく連日休みも殆ど無い状況。
それでも毎週毎週木曜日の夜、雨の日も風の日も雪の日も…休むことなく江古田駅前路上ライブを続けていった。
そんな慌ただしい日々の中で本当に様々な出来事があり、たくさんの人達との出逢いがあったのだが、それはまたいつか 時間をかけてゆっくり書いてみたいと思う。
とりあえず本題に戻るが、今から10年ちょっと前のある夜、
いつものように木曜日の夜、私は江古田駅前で唄っていた。
ちょうどNSPの「さようなら」を歌い終えたところだった。
一人の女性が私に話しかけてきた。
「何で こんなところでNSPなんか唄ってんですか〜?」
…これが私と 今の奥さんとの出逢いである。
そこから先の詳しい話は省略させてもらうが、
この出逢いをキッカケに 様々な意味で私の人生は大きく変わった。
世の中、路上ライブをやっている人間は山のようにいると思うが、
NSPを唄っていて奥さんに拾われた人間は私くらいなものだろう。
後日 NSPの中村さんとお仕事をした際に この話をしたところ たいへん喜ばれ、その日のステージトークでの話題にしてくださった。
非常にありがたいお話である。
…さてさて、2回に渡り長々と語ってしまった。
何だか殆ど ちょっとした自分史のようになってしまったが、
それにしてもまた、私の人生 随分いろいろと節目があったものだ…。
結局は何だかんだ あれこれいろいろあって現在に至るわけである。
そういえば昔 大学に入りたての若い頃、手相研究会の人に一度だけ手相を見てもらった事がある。
「けっこう波瀾万丈な人生を送りそうですが、意思が強い方なので何とか乗り越えてゆけるでしょう。」
…そんなふうに言われた事を ふと思い出した。

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