
早いもので もう4月、
気が付けば 千川通りの桜も満開である。
毎月1日恒例のブログ企画【繋】
今月のテーマは私が決めさせていただいた。
今回のテーマはズバリ!「愛」である。
それにしても何故にまた このようなベタなお題を選んだのか…?
まあ 何というか…
私自身が以前から「愛とは何か?」というテーマで
長年 疑問に感じていたことを一度キチンと書いてみたいと思ったのがひとつ…
そして「愛」という言葉について、
いったい世の人達はどのような印象や考えを持っているのか…?
何だか ふと尋ねてみたくなったことも理由のひとつである。
さて、試しに「愛」という言葉を辞典で調べてみるとしよう。
いくつかネットで調べてみた中から 下記を引用させていただく。
「愛」
1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「愛を注ぐ」
2 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。「愛が芽生える」
3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する愛」
4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への愛」
5 キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー
6 仏教で、主として貪愛(とんあい)のこと。自我の欲望に根ざし解脱(げだつ)を妨げるもの。
[用法]愛・愛情――「親と子の愛(愛情)」「夫の妻に対する愛(愛情)」などでは、相通じて用いられる。◇「愛」は、「国家への愛」など、広く抽象的な対象にも向けられる。◇「愛情」は、主に肉親・親しい異性に対して用いられ、「幼なじみにあわい愛情を抱きはじめた」などという。◇類似の語に「情愛」がある。「情愛」は「愛情」と同じく肉親・異性間の感情を表すが、「絶ちがたい母子の情愛」のように、「愛情」よりも思いやる心が具体的である。
(デジタル大辞泉)
一般的に「愛」という言葉は上記1、2の解釈で用いられることが多いだろう。
親が子供を愛する…ペットを愛する…
男が女を、女が男を愛する…(例外もあるが)
(面白いことに、キリスト教と仏教では「愛」という言葉に関する受け取り方にかなりの違いがあることがわかる。)
3の意味においては、私の周囲でもよく聞かれる表現である。
芸術を愛する…音楽を愛する…ロックを愛する…ギターを愛する…
さて、ここで考えてみたい。
「好き」とは どう違うんだろうか…?
「好き」では駄目なんですか…?
まあ、単純に「好き」よりは「愛」の方がより深い気持ちの強さを表しているとみるのが妥当であろうが。
それこそ中学生くらいの頃に皆 考えなかったろうか?
「恋」と「愛」とは何が違うのか…?
「恋」は憧れで「愛」はより深い感情…とか。
何故に今さら、こんな中二病的な話をしたいのか…
自分でもよくわからないが、最近 妙にこの辺りが気になるのである。
そもそも、自分で恥ずかしげもなく詩を書いて曲を付けて、
あろうことか人前で歌っちゃったりするような人間である。
今までにも散々「愛」だの「恋」だの歌ってきたはずなのだが、
未だによくわからない。
真実の「愛」とは何なのか?
こんなことをグチャグチャ考えるようになったキッカケとして、
私自身が「愛」という言葉に対して かなり強い抵抗感を持っていることを話しておきたい。
よくロックのコンサートなんかで、ボーカルが客席に向かって
「お前ら〜、愛してるぜ〜!」「みんな〜、愛してるよ〜!」
などと叫び、客席がそれを受けて大盛り上がり…
こんな状況を目にしたり聴いたりしたことがあるだろう。
自分は昔から、これに強烈な違和感を感じていた。
そんなに簡単に「愛してる」と言って良いのか…?
(まあ、これなどは上記辞典の4の項目で記されている意味合いでの解釈も可能かもしれないが…)
私個人としては、「愛する」とは「命を投げ出してもいい」というくらいの強い感情を表す言葉であるべきだと思っているので、そんなに軽々しく口にするべきでは無いと考えてしまう。
「愛してるぜ!」などと叫ぶからには、もしもお客の誰か一人にでも何か一大事があった時には
命を捨てても助けるくらいの覚悟はあるのだろうな…などと
屁理屈のような言いがかり的な感情が湧くのである。
漠然とまとまらないままに書くことを許していただくなら
「愛」とは…「愛する」とは「命をかける覚悟」であり、
「ありのままの相手を受け入れること」であり、
「惜しみなく与え続けるもの」であり、「損得を度外視した感情」であり、
「見返りを求めてはならないもの」である。
(しかしながら 上記辞典の6で語られる、ある意味 欲望や煩悩であり罪のような感情を伴うもの…という考え方にも共鳴する気持ちがあるのを否定できない。)
間違っているかもしれない。
まあ殆ど言いがかりだとは思う。
しかし その意味において、私は誰かに対して…
例えば家族に対してさえ、胸を張って「愛している」と言えるのか…?
甚だ疑問である。
例えば、子供の頃に太宰治の「走れメロス」を読んだことがあるだろう。
ここで描かれるのは強い友情であり、ある意味「友への愛」と言って良いだろう。
正直 自分には、友人の為に命を投げ出す覚悟があるとは到底思えない。
情の薄い人間だと思う。
私はメロスにもセリヌンティウスにもなれそうもない。
皆はどうなのだろうか…?
胸を張って「愛している」「信じている」と言えるのだろうか。
メロスのように走れるのだろうか?
セリヌンティウスのように待てるだろうか?
(まあ 同作品のラストにおいて、両者共に完璧では無かった心を互いに詫びる描写があり、人間の脆さや弱さにも触れているわけだが)
ここ最近の私は、自身の作品の中において、
「愛」という言葉を使うことに酷く慎重である。
この「愛」はニセモノ、錯覚ではないのか…?
まして おまえに「愛」を語る資格があるのか?
私が今まで歌って来た「愛」は、単なる「感傷」に過ぎなかったのではないのか…?
考え出すとキリがない…。
そして最後にもうひとつ、
これも今回のテーマを選ぶキッカケとなったものとして
1998年に日本テレビで放送されたドラマ「世紀末の詩」についても触れておきたい。
この作品は1998年10月〜12月にかけて、
脚本/野島伸司・主演/竹野内豊・山崎努、基本1話完結のスタイルで全11話が制作されたドラマである。
この頃の野島伸司といえば「101回目のプロポーズ」「ひとつ屋根の下」「高校教師」「人間失格」「未成年」等々、大ヒット作連発の正しく絶好調な時期だったのだが、
この「世紀末の詩」はそれら大ヒット作に比べるとかなり印象が薄い作品である。
それまでの現実社会を舞台とし 時には過激な描写が非難さえ呼んだ作風に比べると、
「世紀末の詩」は全体に寓話的でファンタジー色が強く、どこか浮世離れした作品であったのは確かだ。
視聴率もいまひとつだったためか、世間的には失敗作としての評価が多いようだ。
ところがどっこい、この作品は私個人としては生涯観たドラマの中でも1、2を争う大傑作なのである。
全体のあらすじとしては、
竹野内豊が演ずる人生に絶望した青年と、山崎努が演ずる同じく人生に絶望した元大学教授、
この二人がひょんなことから共同生活を始める中、毎回 様々な人達との出会いと出来事を通して
「愛とは何か」という命題について問いかけるという異色のドラマであった。
愚直なまでに純粋な主人公と、シニカルに愛を否定する老教授のまるで哲学のような問答…
毎回のゲスト登場人物達 それぞれの愛ゆえの哀しい結末に本当に惹きこまれた。
残念ながら、私の拙い文章ではどんなに語ってもその魅力は伝えられそうにない。
機会があれば是非ともご覧になって欲しい。
野島伸司はその作風からかなり好き嫌いが別れる作家であるが、
この作品だけは先入観無しに是非観ていただきたい。
(毎回のエンディングでジョン・レノンの「LOVE」が流れるのだが、これが本当にハマっていて泣けてしまう。)
さてさて 大風呂敷を広げてテーマを掲げてはみたものの、
いざ書き始めてみれば 何ともまとまりも無く中途半端な内容になってしまった。
もっと深く突っ込んで しっかりと書きたかったはずが、
自身の力不足を痛感させられる結果となってしまった。
またいつか、改めて腰を据えてキチンと書いてみたいと思う。
とりあえず今回は これにて終わりとさせていただきたい。

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ラベル:世紀末の詩