“オリジナリティ”は とても大切なものである…。
その事に異論は無い。
では 果たして、“オリジナリティ”とは いったいどの様なものであろうか?
よく “オリジナリティとは 他の何ものにも似ていない唯一無二の個性”
と考える人がいるようだが、
私は その考え方には いささか疑問を感じてしまう。
とりあえず、曲を作り 人前で唄ったりなどしている身であり、
雇われとは言え、ライブハウス店長などという仕事をやっていれば、
どうしても このような問題に突き当たる。
果たして、“他の何ものにも似ていない唯一無二の個性”など、
この世の中に どれだけ存在するのだろうか?
自分自身を振り返ってみれば、
私の音楽は 明らかに偉大なる先人達の影響を多大に受け、
その大いなる遺産の上に成り立っている。
私は その事を 何ら恥ずかしいとは思わない。
なぜなら、私はその大いなる遺産の数々を
心から愛してやまないからである。
仕事柄というのもあるが
今までに数えきれない程の様々な音楽を聴いてきた。
一万枚近いCDやレコードを所有し、
日々 音楽に囲まれた環境に生きている。
それでも まだ、素晴らしい音との出逢いを求めている。
ただ単純に、音楽が好きだからだ。
これだけの音源を持っていても、
世の中には まだまだ聴いていない素晴らしい音楽が山のようにある。
気が遠くなりそうだ…。
そんなわけだから、誰かと好きな音楽について語り合うことも大好きである。
この人は、どんな音楽を好きなんだろうか?
どんな音楽を聴いて育ってきたのだろうか?
その音楽を媒介として、私は その人と繋がってゆく。
音楽に対する嗜好は、その人自身の性質と深く関わっていると思うのだ。
“音楽を聴く”という行為は、その人自身の明確な個性を表している…。
私は そう考えている。
ところが、時折ミュージシャンの中には、
“自分は音楽を全く聴かない”という人もいたりする。
何故かと問えば、
“音楽を聴くことで、下手に影響を受けたくないし、
自分だけのオリジナルな音楽を創りたいから…”
と答えたりする。
別に それはそれで、他人がどうこう言うことではないのだろうが、
正直がっかりしてしまう。
そうまでして護りたいオリジナリティって何だ…?
ちょっと他の音楽を聴いたら
簡単に毒されてしまうような安っぽいオリジナリティなら、
はなっからたいしたものでは無い。
そんなもの、ドブに捨ててしまえばいい。
そうやって必死に護ったところで、所詮は 井の中の蛙。
自分だけのオリジナルと思っていたものが、
すでに何年も前に より完成度の高い形で
誰かが発表していたりするのがオチだ。
そんなふうには思わないのだろうか?
音楽の何百年にも渡る歴史の中で、
およそ考えられる あらゆる形は ほぼ出尽くしたと言って良いだろう。
残されているのは、
ごく僅かに存在する誰も手を付けていない奇跡のような鉱脈か、
あとは奇をてらっただけの 取るに足らないゴミである。
もし、その奇跡のような鉱脈を探し求めるのであれば、
逆に もっともっと より多くの音楽を貪欲に聴くべきであろう。
そうでなければ、探し当てたものが本当の奇跡の鉱脈なのかどうか、
全くわからないではないか。
そういえば、昔さだまさしが歌っていた曲の中にこんな歌詞がある。
「忘れちゃいけない、もし君が地図にない街を探したきゃ
始めに地図が必要だってことを…。」
“誰にも似ていない唯一無二の個性” にこだわりたいのであれば、
偉大なる先人達の大いなる遺産である素晴らしい音楽を
もっともっとたくさん聴くべきである。
そして その大きさに感動し 打ちのめされ、それでもさらに、
それを超える より素晴らしい音楽を創造して欲しいのである。
目の前に存在する偉大なる芸術に対して、
瞳を閉じて耳を塞いでいるようでは、
到底 人の心を震わせるような音を奏でることは出来ない。
出来るわけがない。
少々遠回りしてしまったかもしれないが、本題に戻ろう。
オリジナリティをその人が持つ個性と考えるならば、
それは 他者との違いを探すことでは無く、
その人の本質を より純粋に表現すること…、
その行為にこそ 意味があるのではないだろうか?
その人らしさが もっとも自然な形で明確に表現されていること…、
それこそが、私の考えるオリジナリティである。
例えば、それはもう既に 誰かが表現してきたものと
よく似ているかもしれない。
だが それは重要な事ではない。
大事なことは、その人の本質が どれだけ そこに
純粋に表されているかということだ。
売れたいが為に、お客に受けたいが為に、
自分の本質とは相入れない表現に走る行為などは、
オリジナリティとは到底言い難い。
オリジナリティとは、ただ純粋に その人らしくあることである。
そういう音楽を 私は聴きたいし、創造したいと思って止まない。